よく見えないよね?
だって、レンズがキズだらけだもん。
まず、その辺に無造作に置きすぎなんだ!
レンズは必ず上向きに置いて欲しい。
これ、常識。
一日の終わりには、「お疲れ様」と言って、レンズを拭いて、ケースにしまって欲しい。
これ、希望。
はあ、今夜も、レンズを下向きに置かれた…。
ボクをもっと大切に扱って欲しい。
だって、ボクは特別なメガネでしょ?
朝、暗い部屋で、しわしわの手がボクを探している。
あーあ、隣の薬箱がボクに当たってるよ。
ほらまた、キズが増えた。
そんなに強く持たないでよ。
顔を洗ってから、かけて欲しい。
これ、願望。
ボクのおかげで、ぼやけた世界がはっきりした世界になる。
そう、ボクは、メガネ。
じいさんは、ゆっくり部屋を歩いて、電気をつける。
お湯を沸かして、お茶を二ついれて、仏壇の前へ。
一つは、ばあさんの写真に、もう一つは、じいさんの両手の中に。
じいさんがお茶をすする。
湯気が一気に眼鏡を白く曇らせる。
白い世界にばあさんだけが楽しそうに笑っている。
「おはよう。今日も朝早いわね。」
「おう。」
「今日は天気が良さそうよ。散歩になんて、どうかしら?」
ばあさんは、にこにこして楽しそうに話す。
「足が痛くて。」
「公園の桜は、咲いたかしら?」
「さあ。」
じいさんがお茶をすする。
眼鏡の中の白い世界がカラフルな現実に戻っていく。
「お前は、また天国を抜け出してきたのか。」
写真のばあさんは何も言わず微笑んでいる。
じいさんはキズだらけの眼鏡で窓の外を見る。
さっきまで暗かった空に朝日が眩しい。
午後になり、娘が孫を連れて遊びにきた。
「じいじ、みて!」
孫は大きくなったら、お姫様になりたいらしい。
今日も新しいドレスを着てポーズをとって、じいじの返事を待っている。
「かわいい。かわいい。今日は青い服で来たのかい?」
「あおじゃなくて、マーメイドブルーのドレスなの。」
「ママのブルーのドレスか。」
「マーメイドブルーのド、レ、ス!」
「そうか、そうか。かわいいな。」
「じいじのメガネ、みえないから、ふいたげるね。」
孫だけが眼鏡を拭いてくれる。
優しくて、よく気が効く子だ。
「じいじのメガネ、キズがいっぱいだから、ママにあたらしいのをかってもらったら?」
「この眼鏡は、特別な眼鏡で、どこにも売ってないんだよ。」
「とくべつ?」
孫が不思議そうに眼鏡を見る。
「この眼鏡のレンズが白く曇った時だけ、ばあさんがお空から遊びに来るんだ。」
「ほんとう?」
「本当。
今朝も、ばあばが会いにきたよ。
じいじは午前中に散歩に行って疲れた。
少し寝るから、ママと遊んでおいで。
眼鏡は、その辺に置いておいてな。」
横になり、孫の「タタタ」という足音が聞こえなくなってから、目を閉じた。
「何やってるの!」
娘の怒鳴り声で目が覚めた。
眼鏡を探したが見当たらない。
そのまま起き上がる。
孫が下を向いて、シクシク泣いているのが、ぼんやり見える。
「どうしたんだ?」
台所にいる娘に声をかける。
「この子が、じいじの眼鏡をクレヨンで白く塗っちゃったの!」
「洗えば落ちるだろう。」
「今、洗ってる。
でも、元々キズだらけだったから、キズの中にクレヨンが入って落ちないの!
ほら、じいじに謝りなさい。」
娘がワーワー騒ぐから、孫もワーワー泣き出した。
かわいいドレスが台無しだ。可哀想に。
「大丈夫だから、こっちにおいで。」
孫は、とぼとぼと近づいてきて、小さな声で言った。
「じいじが、いつでも、ばあばに、あえるようにしたの。」
孫の優しさが目から涙となって溢れだしている。
「そうか、そうか。
ありがとう。」
ボクは、じいさんのメガネ。
キズだらけでよく見えない。
それでも、じいさんは毎日かけてた。
だって、ボクは特別なメガネだから。
ばあさんと一緒にボクを選んだ。
「よく見える」と笑っていたじいさん。
ばあさんが写真の中に入ってから、じいさんは大粒の涙でボクをびしょ濡れにする日が増えて、
でも、その後はピカピカになるまで拭いてくれた。
朝のほんの少しの時間、ばあさんと話をするようになって、
時々来る小さな手がボクを拭くようになって、ボクのキズも次第に増えて…。
今日、ボクは真っ白いメガネになった。
夜、じいさんは、今までで一番丁寧にフレームを拭いてくれた。
そして、「お疲れ様」と言って、ボクをケースの中に置いた。
きちんとレンズは上向きだ。
ボクの見える世界が真っ白になっても、何も見えなくなっても…
ボクは、メガネ?